Please told me

昇華できなかった戯言

弦を弾く

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弦楽器を弾く男性が好きだ。とてもセクシーだと思う。女の子で嫌いだと言う人はいないのではないかと勝手に考えている位で弦楽器を自分だけのために弾いてくれる人にならば殺されても良いと思う。馬鹿なのかロマンチストなのか皮一枚で分かれる考えをしていてそれを叶えてくれる男性を常に傍に置いていた。

弦を弾く繊細な指先や弦を指が滑る時に微かに聞こえる音、チューニングをする器用な指、すべて心臓が痛くなるくらいドキドキする。私がねえ歌って、と言うと黙ってギターを弾き歌ってくれる人が好みでそこまでが儀式のようでそれ以外の事をされると機嫌を崩しもういい、と相手がなぜ怒ったのかと焦る程泣いたり怒ったりしたものだ。

私は男性に対するハードルが城壁の如く高い。それだけ愛に飢えているのだ

甘い声と無機質な部屋

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Sは海が好きだ。それはきっと私の知らない思い出を海に秘めているからだろう。Sのバイクの後ろは私の特等席でいつもそこに座り、冬は寒さに凍え夏は暑さに倒れそうになりながら海を見に行く。互いに何も話す事なく寒さ暑さに耐えながらみつめる海は美しく悲しい。黙って煙草を吸う私に彼も黙って携帯灰皿を差し出したり、時に自身のライダースジャケットを着せてくれる。そんな時間がいつも季節を感じさせ、いつの間にか私も海をただみつめるのが好きになった。私の海の思い出は高校の時友人達と行った遠くの海、Yと遊んだ海、SSが同じようにバイクで連れて行ってくれた海とあっていつの間にか海は私の故郷のようになっている。だからだろうか、私の心の帰るところはいつもいつまでも窮屈で不便であまり縁のないちいさな田舎の島になっている。ここ数年帰っていないのに何かあるとあの辺鄙な島に帰りたくなり死んだらあの島の墓に入りたいと考えてYを困らせている。誰も知らない私の海の思い出、たくさんの思い出。それはSのものと同じで誰にも語る程のものでなくただどこに行きたい?と訊かれれば海に行きたいの、と答える。

Sは海に行ったあと、自身の部屋のバスルームで砂を落としながらあたためてくれてそれはそれは愛おしそうに柔らかなタオルで拭いてくれる。なぜ私とSはすれ違ってしまったのだろうかと共に海を見に行くたびに考えるけれどもうどうしようもない事なのだ。以前は物で溢れ帰っていたSの部屋はここのところその所有欲をすべて手放してしまったように物が少なく悲しい気持ちになる。ただ寄り添うだけの私とS。絶対に無理だとわかりながらもどうか幸せになってください、と細く薄く背の高い身体を抱き締め抱かれるたびにちいさく祈る。

嘘のない恋

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Kと恋愛をするのはとても難しかった。Kは言葉を選ばないし嘘を吐かないと思いきや平然と嘘を吐く(後に気付いたが彼は保身が上手すぎたのだ)し何より「さみしかったから」という理由で情緒不安定になり病身の私を責めたのだ。幼すぎる私よりうんと年上のKをなぜ愛してしまったのかと悩む事も多かった。恋愛に理由はない、それは正しい。とても正しい。けれどなぜ人は自傷行為のような恋愛を多くするのだろう。

Kと一緒にいる間、私の中にはたくさんのちいさな言葉がスノーグローブのように積もりに積もって結局その雪のような言葉たちの重さに潰されどれひとつ言う事もなく黙ったままKとはぐずぐずと壊れてしまった。それらのちいさな言葉たちは一見色や形は違うけれどそのラッピングを解いてしまえば「私を愛してる?」という醜い疑問だけで今になってやっとこれらはこのまま自分の中に沈めておかなければいけないんだと思った。この疑問への答えはわかっていたから丁寧に美しく厳重にラッピングし隠してはぐらかして、それでも伝えられなかった言葉なのだ。ずっと本当はわかっていた。Kは私を愛していないと。

けれどKは時々気まぐれにそのスノードームをとても乱暴に振り回し、私の中の言葉たちは沈んでいられなくなりKはさあ言え、何を隠しているんだと喧嘩腰に私を責めた。その時々は惨めで、いたたまれないばかりだった。

生きる事とみつけたり

私達の周りには死が蔓延っている。それは当たり前の事であり人は生まれた瞬間から死に向かって人生という暇を過ごしているだけだと考える人もいるくらいだ。しかし、もし身近な死が突然訪れた時に耐えられる自信はあるだろうか。たとえそんなに仲が良かった訳でなくても取り乱すだろう。親しい人ならば心を病が蝕みいつまでもひきずるかもしれない。友人、祖父母、学生時代の同級生、何人かの死に直面した時とても辛く心が何年経ってもその人達を思い出させる。ずっとそれが当たり前だと思っていた、当たり前だった。
きっかけは大した事ではなく昨日友人に子供が産まれたのだ。未熟児ながら健康でまだ小さな赤ちゃんを見た時に涙が止まらなかった。そうだ、私達の周りには死が蔓延っているけれどそれと同じくらい生で満ち溢れている。それなのになぜ死ばかりに敏感で過敏で生に対してはこんなにも鈍感なのだろうか。2度と会えないからなのか、けれどそうならば生まれてきた赤ちゃんの毎日も2度とない毎日だ。もっと、生者の声に耳を貸し2度とない生者との日々を大切にしなければ。
思い出は縋るものではない。振り返り束の間浸るものだ。死よりも生を、さよならよりハッピーバースデーを

あなたの愛した偽物

人を好きになる基準とはなんだろう。己の弱さを許容してくれる事がまず第一になるのではないだろうか。そして次に一方的な愛でなくなるのには相手の弱さを許容してあげられる事が必要不可欠になる。その後に色々な理由がついてまわりそれらしい愛の形を作り上げてゆくが最初に互いを受け入れられなければそんな愛は続かない。相手に求めてばかりの愛情や相手に与えてばかりの愛情は害悪なのだろうか、否。それはその人達の愛の形なのだ。強さを求める人と弱さを愛する人が依存ではなくただ寄り添えればそれで成立する。それだけの事なのになぜ愛だの恋だのはややこしいのか。
思うに、当人でなく周りがつつくからややこしくなるのではないか。あの人はいい人だ、あの人はやめておけ、こうすればいい、これは駄目だ、自分の傷になる訳でもないのだから周りは好き放題言い傷付けば可哀想にと慰めうまくいけば自分の手柄のように良かったねと微笑む、その悪意なき可愛らしい友情が邪魔なのだ。
人間は産まれるのも死ぬのもひとりなのになぜ人生でとても大切な事をそんなにも簡単に他人に一任してしまうのか甚だ疑問である。誰かを愛する時ひとりで抱え込むのが苦しい、傷付きたくないと思うのならまだ己が青く恋や愛を知らないだけなのだから誰に相談してもどうにもならない。人を愛し苦しみ傷付きそして愛した人とのみ秘密を共有するのはとても辛くその分甘美な事だ。はしたなく他人に恋人との秘め事を喋り、それを楽しんでいる内は恋をしているのではなく恋をしている自分を話の材料にし友人達ときゃっきゃと愛くるしく遊んでいるだけなのだと思う。それはそれでその時にしかできないとても楽しいお遊戯だから何も問題はない。ただそれをいつまでも恋と錯覚しそのままでいるのはどうにも肚に落ちない。友情と愛情を切り離し恋人を己の心の奥底でのみ燃えるように愛せなければそれはいつまでも過ちを繰り返すだけになる。
綺麗な色や形をして世の中に氾濫しているのは見た目だけの愛情物語で、本当の愛や恋はもっと奥深く、海の底のように静かで暗いところで人知れず蠢いているのだ。
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甘駆ける

「欲しい物」が「欲しかった物」に変わる瞬間というのはだいたい、手に入れた瞬間であろう。物欲というのは果てなく廻る。恋みたいなものだな、とふと思った。物欲は生きている限り決して埋まらない。「欲しい物」は手に入れた瞬間から終わりに向かいすぐに「いらないもの」になってしまい「手に入らなかった物」はいつまでも愚図愚図とキラキラして見えそれを探し続けて素敵なものとして心の中に射止められてチクチクと痛み続ける。所有欲のみで欲しがり、なんとしてでも手に入れようとする私はどこかおかしいのだろう。
Hとはじめて出会い何年経っただろうか、私は未だHを欲しがりHもいつかそれを受け入れようとしたけれどその時にはもう手に入れてしまえば終わりに向かうしかないのをHも私も気付いてしまっていたから互いに心地良い距離でいるにとどまっている。
アクセサリーを山の様に買うけれど私の首は1本しかなく指は10本しかない。ピアスの穴も5個しかない。けれど今、どうしても欲しい物がありそれは決して手に入らないとわかっているからこそ執着しているのだ。精神的にマゾヒストなのだろうか、それともコレクターなのだろうか。誰も持っていないものを欲しがり手に入れても大切にしまっておいて誰の目にも触れさせないのが好きだ。Yはそんな私をよく知っていて1度欲しがった物を安々とは諦めないのをとても上手くいなす事ができる。
恋というのは上手くいっている時は幸せで失えば悲しくて叶わなければ辛くとも楽しいととても単純なシステムだ。けれどそれ以外になるとそんなに単純ではなくなり、Yと私と買い物は不思議なバランスを保っている

キス・マイ・リップ

東京の初雪は1年の始まりの日に降った。ほんの一瞬心を駆け抜けるように激しく降り、ぴたりと何もなかったように止んで日常を取り戻す。それは私の産まれたところで降るスコールのようだった。雪と違い1年間のほとんど、微かな雨のにおいがしたら急いで洗濯物を取り込まなければいけないとても急かされるものでけれど降り終わると涼しく気持ちがよいものでそれが好きだ。東京の雪をはじめて見た時の記憶はまだ幼い頃で朝起きると外が真っ白に染まっていたのでとても綺麗なものだと感動した。けれどSSと雪を見た時汚いな、と思ってしまい今も積雪しない限り降りゆく雪はあまり好きになれない。灰色の空からまるで灰が落ちてくるように見えたし落ちた雪を口にしようとしたらSSが東京の雪は汚いからやめろと制したからだ
今年もまた雪は積もるのだろうか